横浜の人はなぜ神奈川と言わず横浜在住と言うのか

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時折、どうでもよいことを書きたくなる。そして、どうでもよいことを殊更なにごとか意味があるかのように言う人もまたいる。「横浜に住んでいる人は、なぜ神奈川在住と言わないのか。他の都道府県の人に在所を問われたらカナガワと答えるべきなのにおかしい」と言う人がいる。「おまえら気取りやがって」という妬みと、俺は首都圏に住んでいてこんな横浜人を知っているという奢りから出るセリフでありネタであり揚げ足取りだ。でもよく考えてみると、静岡市に住んでいる人は同じように問われたらシズオカと答えるので横浜人だけが特殊な訳ではない。静岡市に暮らす人がシズオカと答えるとき静岡県はまったく想定されていない。静岡市だけ考えてシズオカと答えている。静岡県はご存知の通り東西にあまりに広く、東部、中部、西部はまったく異なる文化圏を形成しているので、浜松人もまたハママツと答える。千葉県も実に広く内陸と沿岸だけでなくさらに細かく文化圏がわかれているから、こうした傾向が強い。横浜人の場合も神奈川県が多様すぎるので横浜と答えるのがごく自然になっているだけだ。横浜の近隣では横須賀の人も、問われたらヨコスカと言い神奈川とは言わない。これでおしまいになる話だが、いつもでも蒸し返す人が多いから説明を続ける。

他の都道府県も同様に地域ごと文化が違うだろうし、いつも都道府県名で在所を答える訳でもない。福島県なら浜通り、福岡県なら博多と答える場合もある。浜通りという呼称が全国的でないなら福島と答え、博多が全国的に知られていると思うなら博多と答えるだろう。どちらも古くからある地名や地域名で、古くからの文化と一体のものだ。福島県、福岡県というくくりは廃藩置県後の線引きで生まれたものであり、人々の帰属意識は県より市や地域に強いのである。シーナ&ロケッツが博多のバンドと名乗っても「そうだね」と思うだけだし、博多のライブハウス文化から生まれたのだから当然だと感じる。もちろん福岡県のバンドでもあるが、博多のバンドというほうがアイデンティティーがはっきりする。五島列島の人が在所は五島列島と答え長崎と言わないのは、福江島などと在所の島の名前を言っても他の都道府県の人にはわからないだろうが長崎より強い帰属意識を五島列島に抱いているからで、このことをあれこれ言う人はいない。つまり横浜に限らず在所を県名で答えなくても不自然な点はひとつもない。むしろ東京都で暮らす人が、大田区、練馬区、世田谷区などと答えずトーキョーと大雑把に言うのはどうしたかことなのか。東京でも青梅の人はオウメと名乗るし、八丈島の人はハチジョウジマと名乗っているのに。

私は北海道の北見で生まれ、日本の北半分を転々としながら育ち、静岡市に実家があり、東京都大田区で暮らしたあと横浜市に人生でもっとも長く生活している。どこで生まれたか問われて北海道と答えるのは北見がどこか本州の人が具体的に把握しづらいからで、ちゃんと返答する際は北海道の北見であると答える。そして前述のように今どこで暮らしているか問われたら横浜と答える。これまでどこで暮らしてきたか説明する際は東京、静岡などと言う。ただこれだけの話である。

東京都24区内在住の人は東京の区割りを地方の人がわからないと思っている。実際のところ区の線引きはわかりにくいし、24もの区が入り組んでいるさまを他県の人は把握していない。そして多くの東京人は区への帰属意識以上に東京都への帰属意識が強い。だから在所を問われるとトーキョーと答える。東京もまた江戸であった範囲、江戸の外だった範囲、下町、山手、関東大震災後に移住者が増えた場所、第二次世界大戦と高度経済成長期に移住者が増えた場所、その他多様だ。だから根っからの江戸っ子で都よりも区よりも町に帰属意識が強い人は、浅草、日本橋等々と在所を名乗ることがある。さらに細分化された町名(たとえば蛎殻町など)を名乗る人もいる。どこに帰属意識を感じているか重要だし、東京人以外に町名なり区名が通じるか判断して在所を答えるのである。両者の塩梅は人それぞれである。これもまた不自然な話ではない。東京人の多くが新参者なので、古くからの町や地域、これらを含む区に帰属意識と一体感が持てず在所を曖昧にトーキョーと言うほかないとも考えられる。横浜人の自称ヨコハマ問題をあれこれ言う例に限らず、県や市や地域について他人をいじるのが好きな人は在所がどこだろうとカッペに多い印象があり、古くから東京に根を張って生きている人からこのような揚げ足取りをされた経験は皆無だ。青梅、八丈島の人からも同様に揚げ足取りされたことはない。

ものを知らない人は、横浜は開港地周辺だけの存在と思っているだろうが実際には北部に大農業地帯が控えていて全体で現在のヨコハマなのだ。横浜市の沿岸部で暮らし始めたばかりの人は別として、それなりに横浜暮らしが長い人は内陸部含めて横浜であるのをちゃんと意識している。したがって、これらをひっくるめてヨコハマと答えているだけで、これもまた帰属意識と地名の知名度をバランスを取って答えているにすぎない。横浜の人は神奈川県より横浜に強く帰属意識を持っているのだ。

歴史の教科書をあらためて紐解くまでもなく、アメリカから開港を迫られて幕府が用意したのが横濱村で当時は漁村かつ寒村だったから体良く提供されたにすぎない。周りに松林やらしかない浜辺の村だったのである。横浜の人口が増えたのは開港のための埋め立てなどで作業員が求められ各地から労働者がやってきたからだ。労働者は主に関東圏や信越あたりからもやってきて、飲食などの商売をしようという人も集まった。ここに西欧、中国からの人も加わり文化が混交した。横濱村の住人を元祖横浜人とするなら、現在末裔がいたとしてもほんの一握りの絶滅危惧種である。横浜人とは、彼ら元祖と開港当時にやってきて住み着いた人と、当時はまったく別の文化圏だった北部等の農業地帯の人、時代が下り京浜工業地帯で働くためやってきた人によって形成された集団だ。私のようにもっと遅れてやってきた人ももちろん多数いる。

雑多に集まってきた人々が独自の文化圏を築き上げたのが横浜であり、開港地ゆえに諸外国からも文化が直接流入した。海外から来た人々が集まる居住地はあったが、この人たちにサービスを提供する商店や、この人たちから教育や技術などのサービスを受けようとする人々も多かったので、現在に至るまでお隣さんとして外国人と付き合わざるを得なかったのだ。在所が横浜であること以外は共通項のないよそ者同士が衝突しながらも土地に根を張って生きて行かなければならないので、最大公約数を求めて横浜への帰属意識が強くなって当然だろう。これは江戸が成立した時代の下町もしかりで、彼らは江戸っ子と呼ばれている。江戸っ子をもじって横浜を在所にする人を浜っ子と呼ぶ比較的新しい呼び名があるが、浜っ子と江戸っ子は意味するものは違う。浜っ子は開港後に流入した人々だけでなくかつて沿岸部と地域性が異なっていた北部地域の人や、現在も流入し続け土地に腰を落ち着けた人々を含んでも違和感がない。だが江戸っ子は、明治維新前から暮らしている人を指したり、この人たちが自ら名乗るケースがほとんどだ。私は横浜中華街のそばで暮らし、取材して小説を書いたが、彼ら華僑が帰化していようといまいと「浜っ子ですよ」と名乗られてもまったく違和感がない。ここは江戸っ子との大きな違いだ。

ザ・ゴールデン・カップスは本牧のゴールデンカップから誕生したバンドだ。メンバーの移動はあったが華僑、日本人とアメリカ人のハーフ、日本人で構成されていて、彼らがどう思っているか別として、横浜のバンド、本牧のバンドとして多くの人が認識していたし、同時代人ではないが私も横浜らしい本牧らしいと感じる。音楽性も他のGSと異なり歌謡曲志向がないロックバンドだ。神奈川のバンドと呼ぶのも間違いではないが、これでは特性が表現できない。本牧の軍施設のほか各所にアメリカ人の軍族しか使えない施設がいくつもあり、柳ジョージの歌の歌詞ではないが日本人は屈折した思いを抱かざるを得ないものであり、世界最大の中華街があり、かつて印僑が暮らす一角のほかユダヤ人やギリシア人も多く暮らしていて、ナイトクラブ「シェルルーム」とライブハウス「シェルガーデン」などに代表されるクラブ、ライブハウスもあった(もっとさまざまな東京とは明らかに違う文化があった)。美空ひばりの故郷が横浜で、横浜から彼女は飛び立って行った。これら開港地横浜をごった煮にしてフィクション仕立ての舞台設定にしたのが日活の無国籍映画であったし、私立探偵濱マイクも横浜だから成立した物語だ。いつ、どこからやってきたかで人を問わず、暮らしの基盤をどこに置いているかだけを問うのが浜っ子の概念で、所詮よそ者のごった煮なのだからしかたない。よそ者同士なので、相手がどれほど奇妙な習慣や文化を持っていてもこちらのやり方に従えと一方的に主張できないのは当然で、衝突しながらも相手の得意分野を取り込んだほうが圧倒的に得なのだ。「横浜に住んでいる」これしか共通項がないのが横浜人だ。

横浜の名物が中華街発祥のものだったり、山手の諸外国人周辺発祥のものだったり、これらと関わった人がはじめたものだったりで、根っからの土地のものがほんどないのはよそ者同士が衝突したり受け入れ合ったりした結果なのだ。また中華街発祥の名物やこれらを参考にしてつくられた名物を横浜の名物と名乗っても、中華系の人はパクリだ横取りだと言わない。なぜなら彼らは横浜人だからだ。パン、アイスクリーム、洋式家具、写真術、洋式の絹製品の日本での発祥の地を横浜は名乗るが、発明したのではなく外国人から習って工夫した結果であるとして恥じないのも、地の利と時の運を的確につかまえて道を開いた点を述べているからにすぎない。シウマイの崎陽軒は自らが平凡な弁当屋であったのを隠さないし、中華街の海員閣主人に教えを請うたがシウマイの製法を秘匿されたので調味料の使用量を試作後にどれだけ減ったかこっそり計量したのも隠さない。また獅子文六が小説で扱ってくれたおかげで全国に名が轟いたと社史にはっきり書いている。名物に限らずこれが横浜であり、ほとんどの横浜人は他所は他所、横浜は横浜と他を蔑んではいないし独自性について客観視している。

かつて横浜北部は横浜のチベット、神奈川のチベットとチベット人が聞いたら激怒するような蔑称で呼ばれることがあった。蔑称で呼ぶのはほめられたものではないが、沿岸部からの交通の弁が悪いため人の移動に伴う交流がすくなく文化圏としても別ものだったのは事実だ。しかし北部は中原街道、厚木街道が横断しているので江戸または東京が殊更遠い場所ではなく、開港前はこちらが現在の横浜の本体だった。王禅寺の甘柿、川和の菊が江戸で評判になったことからも文物の交流が盛んだったのがわかる。沿岸部の人々は東海道で、北部の人々は前述の街道で東西に移動はしたが南北にはあまり移動しなかったので、北部には開港地の雰囲気はまったくないが別の文化が存在していたのである。北部と沿岸部は米、野菜、生糸で結ばれていて、これがモータリゼーションと地下鉄の延伸で人の移動が活発になった。したがっていまだにチベットを蔑称として使う人はいても、交通が南北を結びきった90年代にはほぼ消滅して現在に至っている。ニュータウン開発によって現在は沿岸部以上に北部が流入者の受け皿だろうし、諸外国の人々もまた圧倒的な数が暮らしている。これもまた横浜だ。

別にお高くとまっているのではなく、同じ神奈川でも東隣の川崎、中部、東部とあきらかに違うので横浜人はヨコハマと言うほかないのである。横浜をカタカナでヨコハマと表記する例が多くこれさえも気取っていると言われるところだが、横濱村は消滅して国籍や文化が違う人がごった煮になって現在もぐつぐつ煮えているので無国籍調のカタカナでもいいのではないかと感じる人が多い結果でしかない。そして帰属意識を横浜に置くほかないので、横浜人は在所を問われると自然にヨコハマと答えている。事情は違っても、例示した静岡、浜通り、博多、五島列島、青梅、八丈島などと何ら変わらないのである。もの知らずのカッペではなく地名厳格主義者として批判したいのなら、これら県名で在所を表現しない例もことごとく追及すべきだろう。

Fumihiro Kato.  © 2018 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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