ロケ地と構図をどうするかパースの話(ある会話の2の続き)

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おいちゃん:一日置いて、また話をはじめるわけですが元気ですか(笑)
おいら:おいらのこと? なんか疲れやすいよね歳だし。
おいちゃん:風景撮ってると、遠くへ出かけるし疲れるでしょ。
おいら:やっぱり20代でやるだけやっておくのがいいかと(笑)
おいちゃん:だがな、20代は方向が絞れないんだよ。

おいちゃん:砂丘っぽい作品をつくってるけど、あれは事前に砂の状態とか調べるの?
おいら:かなり調べるのが上手くなったよ、砂に関してはね。
おいちゃん:では、調べる方法から行きますか。

おいら:Macだと衛星写真を見られるMapアプリがOSにバンドルされているわけですよ。あとGoogle Mapにも衛星写真がある。動作の軽さでいうとMapアプリで、しかもうちのMacの27インチ画面いっぱいに衛星写真が広がる。以前はどこに海岸があって砂が豊富にあるのかとか、起伏のある砂丘状なのかわからなかったから、こういった衛星写真以前にいろいろ検索して把握したんだよね。いまはどこに行けば大きな砂浜があって、砂の色は何色かわかってきたけど。
おいちゃん:どこでもいい訳じゃないんだ。
おいら:おいらの作品には、例外もあるけど波打ち際まで50m以上ないと無理。それでも足りなくて、100〜200m以上は欲しいところなんですよ。
おいちゃん:そういう場所はすくないの?
おいら:浜辺の一部が100mくらいあっても、あとは数十メートルあれば御の字といった具合だね。全体が波打ち際まで幅広で、さらに起伏があって、何らかの引力を発してる人工物が放置されてるようなところは数えるほどしかないんだ。たとえば九十九里ならありそうだと思うでしょ。ところが砂が侵食されてることもあって、津波対策の防潮堤がつくられてからというもの絶好のポイントは1、2箇所。
おいちゃん:そういうのは行ってみてダメだったりしたの?
おいら:うん。何も撮影しないのはしゃくだから、いろいろ撮ってるけど。
おいちゃん:そうなると、同じ場所に繰り返し行くことになるね。
おいら:だけど、新しいポイントを開拓したくなるんだよね。

おいちゃん:では、どうやって探すかという話を。最近もロケについて記事にしてたけどさ
おいら:衛星写真をさっきのアプリとGoogle Mapで行ったりきたりしながらまず探す。最近は探す大まかな範囲がわかってきたよ。で、衛星写真だけでだいたいの状態がわかっても、その衛星写真が満潮のときか干潮かもあってね。さらに浜っていうのは数年で様変わりするもので、いつ撮影されたものか、こういうサービスではわからない。でも平面から起伏を読んだり、岩の高さは経験値と影の長さで見ますね。付近にあるクルマの影なんかの長さと比較したりして。砂の色もけっこう重要だけど、わからないのは漂着物のゴミの量と、砂と小石がどのように点在してるかの微妙なところだな。
おいちゃん:海水浴場ってなってれば浜と違うのか?
おいら:想像と違う場合もあるな。あと、遊泳禁止で海水浴場でなくて、場合によったら浜の名前がない場所がフォトジェニックだったりする。海水浴場でも駐車場がないとかけっこうあるし、どうやって浜に降りるか検討したり、現場に行ってはじめて難所とわかる場合もあってねえ。

おいちゃん:どんな場所でも経験則が重要とは言えそうだ。
おいら:そうだね。まあこういうやり方はクルマ移動でしか不可能だろうとは思う。バス待ってたら日が暮れる場所ばっかりだし。できれば宿泊して、ロケハンと本撮影ができればいいけど日程的に難しい。これには行き当たりばったりで妙なものを発見して撮影するおいらのスタイルが影響してるけど。
おいちゃん:かなりほっつき歩くの?
おいら:歩かないと現地に行ってはじめてわかる何かに出会えないしなあ。前の回で出した岩礁に白い杭が並んでる写真は、灯台だけ撮影できればと思って出かけた先にあったもので、これまで誰も注目していなかったらしくて検索しても写真がなかったんだよね。衛星写真でも、この大きさになると識別できない。いつ設置されたかもわからない。
おいちゃん:そういうものに出くわしたとき、どう撮影するか答えがすぐ見つかるの? 構図の話なんだけど。
おいら:どう料理してやろうかな、だな。使えない構図、レンズの焦点距離とかは即答できるよ。見つけ次第、いつも手元にあるのは15mmと45mmなので、どっちかのレンズで撮影できる距離に移動する。15mm、45mm、135mmで何かが得られる場所を探してきてるというのもあるね。でもまあ、おいらにとって万能な組み合わせなんだよ。

おいちゃん:15mmと135mmの話は前回したけど、どうして45mmなんか使ってる?
おいら:もしかしたら50mmでもよいかもしれないけど、たった5mm差の画角の広さに自由を感じて気が楽なんだ。
おいちゃん:風景に50mm? とか標準は使いにくくて嫌いという人がいると思うよ。
おいら:標準域は割と好きなんだよね。で、ちゃんと写真にもなってるでしょ。どうして嫌いな人がいるのか理解できないので、いまいちアドバイスも反論もできないんだなこれが。
おいちゃん:けっこうな数の人が、広くもない狭くもない、どのワーキングディスタンスで撮ってもしっくりこないと言ってるよ。
おいら:昔はズームが高嶺の花で、中古のカメラを買ってきたらくっついてるのが50mm、55mmだったのはおいちゃんも知ってるでしょ。そういう時代に交換レンズが買えなくて、長らく50mmでいろいろ撮ってたのは影響が大きい気がするよ。このあたりの画角は、肉眼の日常的な視野より狭いけど遠近感の具合が肉眼に近い。45mmでも肉眼でぼんやり対象を見ているときより狭いね。でも、遠近感の在り方が自然なのは使いどころが大きい。ただ、接写では遠近感がとても強調される気がするし、物体の正確な形状を記録しにくい。円形の皿が楕円形や歪んだ形になる焦点距離だ。
おいちゃん:素直ってことは、風景ではパースのつき方で観せる写真にならないね。
おいら:工夫しなくても静かな状況を淡々と写せるってことですよ。

おいちゃん:そこで標準レンズの構図なんだけど、静かな感じの焦点距離だと魅力的な被写体がないと難しくないか?
おいら:たぶん何にもないことというか、おいら流に言うところの引力が強い主たる被写体がない感じに耐えられないんだな。びっくりするものがないと写真を撮る意義を疑わせるというか。これは過剰なものに慣らされていたり、過剰な状態こそ写真にする意味があると信じきってる病だね。普通すぎるものを普通すぎる状態で撮って写真にする構成力がないわけ。発想できなくなってる。実際には、標準域のレンズでもいろいろできるのにね。寄ったり引いたり、絞りを開けたり閉めたりで広角的にも望遠的にもなるのは知っていても、風景は寄ったり引いたりが効かない対象だったりで、絞りでどうこうしても効果薄なワーキングディスタンスだったりするし。
おいちゃん:45mmで撮った写真を見せてよ。
おいら:はいよ。


おいちゃん:前回、前々回と見てきた15mmと変わらないというか、砂の上に木の柵がある写真は15mmかと思ってたわ。1枚目は135mmと言われたら信じるな。
おいら:だろ。ときどき自分でも、どっちで撮ったかな? なんてデータを見直すことがあるよ。
おいちゃん:これはどうしてなんだろう。


おいら:こっちは15mmね。15mmは水平垂直と、被写体との向きの関係に気を配って立ち位置を最適化してるからパースの誇張に異常な感じがすくないんだろうね。45mmも基本は同じ。だから、おいちゃんに何度か見せてるこの写真が15mmとわかるとすると、浜と海のラインについてるパース感からだけとなるかもしれない。手前部分の左右への広がりは明らかにすごく広いけどね。
おいちゃん:50mmと違って45mmは広角ってことなのかな?
おいら:実感としてはノーだね。ほんのちょっとだけ広い標準だよ。被写体のかたちと立ち位置を変える発想があれば、なんとでもなるってことかもな。標準域のレンズが使えないと言う人がどうやってるかとか、何が苦痛なのかほんとわからないから、逆に知りたいんだよね。

おいちゃん:ロケ場所は、いつも使ってるレンズの焦点距離で決まるの?
おいら:あきらかに「こんな感じの見え方だろうな」と探してるけど、15mm、45mm、135mmの組み合わせでぜんぜん違うテーマというか、違う場所も普通に撮れるよ。この組み合わせに固定してるけど、24-70だけでやれと言われたら同じテイストで撮影できるし、45mmだけでもさっきの例みたくなんとでもする。昔から、こうなんだよ。
おいちゃん:だったらカメラ3台にレンズくっつけて、重さに耐えながら砂地を歩く必要ないじゃん(笑)
おいら:そうだよな、とは思う(笑) 135mmはいっつも持ってくか迷うんだ。ただ、15mmでしか撮れないとか45mmでしかとかあるから、砂塵とか潮風でレンズ交換できないのもあって重さに耐えてるのよ。
おいちゃん:ズームにしようとは思わないの?
おいら:実は24-70とか70-200とかを入れた組み合わせにしてる作品もあって、あとから自分でも違和感ないし誰からも……おいちゃんとかも何にも言わないとこを見ると、それでどうにかなってるんだよね。でも45mmが24-70になったからといって15mmが不要とはならんでしょ。70-200を持ち出しても結局使うのは135mmか200mmあたりだけ。ぶらぶら歩いてるとき無意識のうちに画角のフレームを想定してるから、むしろ焦点距離が伸びたり縮んだりするのは煩雑なんだよね。

おいちゃん:超広角ズームなら15mm近辺から35mmくらいまであるでしょ。そういうのもやっぱり却下なの?
おいら:それだと45mmがなくてもいいかなと一瞬思ったけどさ。28、24mmも使えるしとか。28mm、24mmは好きな画角で柔軟性が高いんだよね。でも、メーカーがくれるなら使ってみるけど今の所は70-200みたいなことになりそうで、自分で買うほどではないんだよ。それだったら24-70を入れたほうがいいかなみたいな。15mmの15mmにしか使えないところが割り切りいいというか、超広角ってそういうところがあるんだよ。
おいちゃん:28mmと24mmは単焦点で持ってるよね。
おいら:うん。だから45mmではなく28mmでやろうかと考えるけど、うーんどうなんだろうといつも荷物候補からはずされるのが28mm。なにを使っても、どうにでもなるだろうけど。

おいちゃん:他の人にも超広角ズームは勧めない?
おいら:人それぞれだしなあ。そういえば超広角ズームの35mmまであるところを「つぶしが利きます」的に言ってる人がいて、なんにもわかってねえなあとは感じた。だったらおまえはいっつも7倍とかのズームレンジのレンズ使ってるのかとかさ。
おいちゃん:敵をつくる発言かよ(笑)
おいら:いやあ、わかってないでしょ画角ってものを。
おいちゃん:その人は、人それぞれってことで理由があると思うぞ。
おいら:広角と名がつくところを、それ1本にして経済性を取るって人かよと喧嘩売ってるんだけど(笑) 何mmにしか撮れないって画角ではないよ35mmは。超望遠は、その焦点距離がないとどうにもならないところがあるけど。28mmとかで35mmなみの絵をつくれないから35mmがとかさ。超広角主体の発想で撮影していて35mmがないとつぶしが利かないというのはちょっとな。
おいちゃん:45mmがないと、というのとどこが違うの?
おいら:おいらが言ってるのは「つぶしが利く」ってところなんだよ。もちろんメーカーは35mmまでがんばってレンジを伸ばしてるわけですよ。でも足を使って移動して、被写体との角度や方向を最適化する撮影がわかってないなとか、こうして撮ると妥協の結果みたいな構図しかつくれないんだなというのが透けてみえるのですよ。なのに「つぶし」とか、ちょいと偉そうな気がするだろ。

おいちゃん:35mm不要論者と思われるぞ。
おいら:必要な人にとって35mmはおいらの45mmと同じだろ。おいらは何mmのレンズで撮ったとしても、できあがった画像を観る人が焦点距離特有のパースにまずびっくりしたり感心するような写真はたいがいどうでもいいものという哲学なんですよ。ほら作例とかで、国際フォーラムのトラス状の天井込みの超広角画像とかあるじゃない。トラスはパースがつくと異様な感じが出るし、そうでなくても広さとパース感で圧倒するみたいなで。広角レンズらしい広さアピールの作例ならいいけど、作例でもなくこれだけで写真を成立させてる人は、結局のところ異様なパース以外ではなにも語ってないし内容がない。同じ場所で撮っていても、感心する写真は世界観からして作例と違うわけ。ズームだろうと単焦点だろうと35mmが不要なのではなくて、準広角から超広角は撮影位置、ワーキングディスタンス、角度でまずコントールして被写体を静かに見せるというのが理解できてないのが痛いということを言いたいのだよ。パースのつき方の非日常性は、ほっといてもどっかに現れるのだし。

おいちゃん:普通の人は広角はパースのつきかたが欲しくてレンズを買うところがあるから、これは特殊な考えと但し書きしておきます(笑) 特になんでもない風景を撮影するってのも珍しいと思うよ。
おいら:なんでもないか、何かが違うかは人によって感性が違うから判断はいろいろなんですよ。そこで初回の「世界観」の話になって、なにもないとかなんでもない場所を見たときの興味の持ち方が変わるわけ。ジャポニズムが始まるまでの西洋絵画は、宗教画も肖像画も特別の出来事や特別な人を描いてたわけだけど、浮世絵は漠然と名所とか街道の風景とか、もっと言うと雨の日の橋とか、なんでもないものを平然と表現しちゃっていて彼らは世界がひっくり返るくらい驚いたのね。そこで印象派の風景画がはじまったりして、単なる山とか単なる池とかどんどん描きまくったと。街道沿いの並木が一定間隔で並んでる、それだけでいいみたいな。そういう意味では、一周回っておいらの風景は印象派の末裔かもしれないし、先祖返って葛飾北斎や安藤広重の方法論と同じかもしれないと。ずっとひとつのテーマと作風維持して海沿いを撮ってるしね。
おいちゃん:なるほどねえ。
おいら:たとえば、これまでに紹介してきた写真ではこれなんだけど。

おいら:単なる電柱の一本を手前に、それも見切れるサイズでどんと置いて、あとは世界観の余白が占めてる構図はかなり浮世絵的なんですね。広重の梅が、まさにこれ。それをゴッホが必死に模写したのがこれと。

おいら:説明しなくてもわかるけど、手前にどーんと主題がきて背景がすっと遠くにあるなんて構図はジャポニズム以前の西洋絵画では発想すらされてなくて、やったとしたら稚拙とみなされたりキチガイだったりで。だから日本の絵画の影響は印象派以降だけでなくて、世界中の写真にも影響を与えてるわけです。広重の梅はかなりの広角でぐっと被写体に寄った視界なんだけど、枝の動きはパースの誇張がなく平坦で、だけどそれなりに背景の梅は小さいのがわかるでしょ。しかも密度がある。これ超広角で撮ったら梅の枝の手前と奥への動きに相当なダイナミズムが現れてうるさくなる。ところが、まるでひとつの面にレイアウトされたように枝が描かれてる。もうこれだけでゴッホは狂喜乱舞と。

おいちゃん:よくて見ますな。「日曜美術館」かよ。
おいら:古今東西の作品を見なくちゃだめって、これなんですよ。広重の視覚あるいは画角は、手前の梅の範囲については超広角、なんだけど梅のパースについては望遠。奥の梅の列から人物雑踏は標準もしくは中望遠だから、それなりの密度と重なりがある。これを写真で実現するのは不可能なのがわかる。印象派以前の西洋絵画は、カメラオブスキュラっていう一眼レフのマット面に紙を置いてトレースするみたいな機材でスケッチするようになるのでわかる通り、一点から見たときの遠近感表現に厳密カチカチだったのね。だからゴッホは死ぬほど驚く。カメラとレンズで表現する写真をやってる人は、CGで合成するほかこういった表現はできないのはわかるでしょ。写真は一点から見たときの遠近感に面白みがあるわけだし。
おいちゃん:あんまり合成とか複雑にすると面白くないよな。
おいら:おいらが15mmで撮っても45mmで撮っても、まったく異質な違いにしないとしてるけど、これは遠近感に敏感になってることでもあるのよ。たとえば、さっきのあれと135mmで撮ったこれだけど、135mmのほうだけ見せたら45mmでって言ったらぱっと見ではわからんでしょ。まあわかるけどさ(笑)

おいら:なんでもない風景で世界観を濃厚に反映させる撮影では、広重流の発想は重要でワンポイントになるもので掴みをつくって、遠近感のコントロール次第で語る。だけどカメラでは複数のパースを共存させられないし、パッチワークみたいに寄せ集めるのも不可能。これは異論ないでしょ?
おいちゃん:そりゃそうだ。
おいら:ならば、対象への上下左右の角度とか、ワーキングディスタンスとか、それに応じた焦点距離の選択で解決するわけ。こうした要素で遠近感のコントロールというか見せかけをコントロールできないとダメなんだな。大切だからもう一度言うと、構図のうち遠近感のコントロールで語れるものは多いし、世界観についてはおいらの場合はこれで対応してる。考えてやろうとしてもまったく無理だからね、これ。ロケ地に行って心が動いた瞬間に、さっとレンズの選択して、さっと適切なアングルが決まる流れでやってるの。心のどっかにやりたいことがはっきりしてたら、誰だってできますよ。

 

Fumihiro Kato.  © 2018 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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