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ギャラリーにて新たなシリーズ、「惑星と文明 18-1 時間は砂となって降り積もる」を開始しました。
海景と題してここ数年間撮影を続けて、写真は具象表現なのだけれど抽象表現に方向性が傾いていた。「具象なのだが抽象」は撮影されたモノやコトの存在が、そこに存在している意味とは別の意味が感じられ、しかし元の意味が消えていない表現になる。これが「惑星と文明」(という意味)なのだけれど、ならば「海景」の「海」の部分に主眼を置かなくてもよいのではないかとなった。もちろん「海」だろうと陸だろうとよいのだが。
砂は面白い。かたちが刻々とかたちが変化する。この変化の過程が風紋となって現れているし、大小の起伏になっている。砂は厄介なもので、砂に飲み込まれるのは人の営みの衰退につながる。だから、人は砂に抗う仕組みをつくり続けてきたし現在もなんらかの手を打っている。ところが最近は河川の上流にダムが造られたり、その他の人の営みによって海に流入する砂が減っるほか離岸流によって浜から砂が奪われている。海景を撮影するためあちこち移動してきたが、多くの砂浜または砂丘がここ何年間でどんどんやせ細っている。十数年を一つの単位として見ると、砂浜や砂丘は数メートル侵食されているのだ。こうなると人は、自然保護の観点から砂を元どおりにしたいと思うようになる。
砂は不毛だし、砂が吹き寄せてくるのは前述のように厄介な問題ばかりで、千葉県の歴史は(千葉県の名前が存在しない太古から)砂との闘いだったりする。南房総の沿岸部に近い山の中に砂丘が忽然と存在していて、これは有史以前から浜の砂が風に巻き上げられ飛ばされて堆積した結果だ。この事実ひとつとっても、いかに厄介者かわかる。しかし、浜が侵食されたら元どおりにしたいと思う人がいる。矛盾ではあるけれど、その気持ちは痛いくらいわかる。これを面白いと書けば語弊があるのは承知しているが、砂を巡る人間の利害の複雑さは素通りできない興味深さがある。
砂を抽象的に描写しても単なる模様にならないのは、たぶん人間の一人である私の砂を巡る小さな利害が拮抗するからだろうし、他の人々の利害もまた当然写し込まれるからだろう。また人間にコントロールできない様々な大きな力が想起されるからだ。
Fumihiro Kato. © 2018 –
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