体が動く間しか写真は撮れない

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私は10数キロの機材を運びつつ撮影しているが」と題した記事とも日記ともつかない文章を書いたけれど、つくづく思うのはいつまでこんなことやっていられるかという大問題だ。将来的に撮影機材が劇的に軽くなるかもしれないが、その日まで撮影していられるかわからない。土門拳氏は脳卒中により体の自由を失ったのち車椅子に乗り古寺巡礼のシリーズを続けたが、大判カメラのセッティングからシャッターを切る直前までのすべてを助手と弟の牧直視氏が行い、ピントグラスを見るのだって不可能な状況があったはずなので構図について指示を出すにとどまったカットもたくさんあったろうと思われる。当然のこと機材を運ぶ、露出量を計測するといったことも土門氏を助ける人々によって行われている。車椅子生活となる原因は1968年の雑誌「太陽」の取材中の脳内出血であったが、太陽に掲載された写真は急遽牧直視氏の名前で発表され、どこからどこまで土門氏の撮影か牧氏の撮影かはっきりしない。こうしたお膳立てから撮影まで誰かが助けてくれたのは土門氏だからであり、現代でこれをやろうとしたら大金を積まなくてはならないだろう。そして、私個人の思いとしてはこうやって撮影したものを自分の作品とは死んでも呼びたくない。

いっぽう木村伊兵衛氏は体調がすぐれなくなると、それまで朝に家を飛び出し日暮れてから戻ってくるような撮影を繰り返していたのが、ほんの身近の被写体ばかり撮影するようになる。病床に伏してからは、床の中から見えるものをライカフレックスで撮影するだけだった。土門拳氏とは気性からしてまったく違う人物であるし、スナップやポートレイトの名手で興味の対象は被写体の自然体の中の一瞬で、大名行列よろしく助手を引き連れた撮影なんてしたくなかったのだろう。既に私の本音は文章に現れているはずで、少年のときNHKのドキュメンタリーで見た車椅子の上からあれこれ指図だけして準備が整ったら大判カメラのシャッターを切るだけの土門氏がとても感じ悪かったのである。シャッターを土門氏が切るのは、こうしないと土門拳の写真として発表できないからに他ならない。なんとか姉妹の妹が姉(二人は血の繋がりはないけどね)を撮影した写真集とかも、これである。土門氏は何としても写真を撮りたかっただろうが、釈然としないものとともに疑問を抱かざるを得ないのだ。土門氏のディレクションが不可欠なものなら、土門氏ディレクション撮影●●氏でよいではないか。これでは売り物にならないクライアントと土門氏のエゴが結びついた土門印の作品なのである。

弟の牧直視氏は納得づくだったと思う。だがはっきり言って、牧氏が撮影のほとんどをこなし土門拳氏がシャッターを切るだけになった時期の「古寺巡礼」は、その場に土門氏がいることで精神的支えになっていたとは思うが、牧氏の作品だ。納得づくで兄弟にしかわからないものがあったとしても、牧氏に対して失礼であると赤の他人の私は感じる。牧氏の後年の作品を見ると「古寺巡礼」を撮影するだけの力量があったとわかる。土門氏と土門氏を求めるクライアントは牧氏の可能性を潰したのだ。

写真以外の分野では、かつて翻訳の世界にひどいものがあった。ハヤカワの古い翻訳ものにはどうしようもないものが多々あり、いくら読んでも内容が頭に入らず「なんだこれは原作が悪いのか」となるのだが、同じ作品でも同社の新しい別の翻訳者の手になるものはすっとストーリーの世界に入れる。だいたい大学の英文学の先生の訳がこの手のもので、名前で仕事を請け負って下訳だけでなく仕上げも弟子にやらせているから読むに値しないものになる。これでは先生氏の翻訳とは言えないだろう。でも、ギャラは先生に入り先生の名前で訳書が世に出たのである。

実際に体の自由が効かなくなってみなければわからないし、考え方は人それぞれだろうし、掃いて捨てるほどお金がある人なら助手とともに大名行列をしてシャッターだけは切るような撮影を続けるかもしれないが、いまのところ私はその日がくるまでにやれることをやり尽くしたいと願っている。行きたいと思ったところに自力で行き、機材を持って移動して、何から何まで自分でやってシャッターを切り、現像もまた自分でやる。写真は体が動く間しか撮影できないのだ、と撮影のたび思うのだった。明日、私は病気か事故か問わず体の自由が効かなくなるかもしれないのだ。

現在30代以下の年齢の方々は、こういった話をジジくさいと思うだろうし、まったく切羽詰まっていないだろうけれど、40代になると途端にいろいろ考えざるを得なくなるだろう。目の衰えだけとっても、老眼はだいたい40歳くらいから不自由を感じだすものだ。老眼は近場のものに焦点が合わなくなるのだけれど、何かとひどい乱視で近くのものしかピントが合わなかった近眼の私だって老眼になった。老眼と遠視はまったく違うものなのだ。つまり近くが見えず、さらに遠くも見えず、焦点は固定焦点のごとく眼球から30cmくらいに張り付いたままになる。さらにジジくさい話をすると、遠近両用メガネは段差がないものでも段差があって視界が不自然極まりなく、私のような視力のものに至っては近場だけ見るための老眼鏡では何も改善されないのだ。だから私は矯正視力の度合いが低い乱視近眼用メガネときっちり矯正視力を出した乱視近眼用メガネの二刀流を強いられている。この視力問題ひとつとっても写真を撮影する上での大いなる邪魔、ハンディーキャップになっている。

余計なお世話だろうが、身を以て動揺する日がくる前に、好きなようにたくさん写真を撮っておくべきだろう。間違っても、若いのにカメラのカタログ値やレンズの薀蓄なんかに詳しい人になってはならない。カメラ評論家みたいな人がとっかえひっかえ機材について上っ面の話をするのに感心したり、クラシックカメラの思い出話をするのを読みいったり、リーク情報を伝えるブログのコメント欄常連になったりしている暇はまったくないと思うのだ。そして、自転車でも原付でも二種原付でもいいから飛び乗って撮影に出かけるのが吉だろう。こうやっていると写真以外の何かの不足に気づくので必然的に何かを研究しなくてはならなくなって、ますます時間がなくなる。

これは年寄りに片足を突っ込んでいる私が説教したくて書き連ねているのではなく、むしろ自分自身のことなのだ。私は東日本大震災の被災地を撮影しているのだけれど、まず家を出て撮影地に赴かなくてならないし、地理と歴史と経済、地学的なあれこれをどうしても予習しなければならない。予習したものが写真に写しとめられる訳ではないが、小はロケ地決定の助け、大はシャッターを切る私の脳みそと体をかたちづくるものになっている。「こうしておかしな文章を書いている時間はなんだ?」と言われそうだが、これくらい許してよ。文章は誰かに読んでもらうものを毎日書いていないと写真と同じで、どんどん力が衰えるものなのだ。そしてこれが答えで、誰かに見てもらう写真を日々撮影していないと写真力がどんどん衰えるのだ。楽器を演奏する人、自動車を運転する人ならわかってもらえると思う。私がSNSに懐疑的な態度なのも大半は時間が足りないからで、片手間につぶやくとか言われているけれど不必要な情報が流入して、つぶやきもまた精神の働きなので余計な負荷になるのが嫌いだからだ。しばしばとてもグロテスクなものを垣間見てしまうのも不健康極まりない。ああいうものは世の中の真実を理解するのに必要とか、そういうのいらないし、そんなことより自分で勉強したほうが確実である。

写真を取り囲む世界はほんとうにおかしな空間で、ギタリストなら指がもつれたりチョーキングの音程がおかしいのにギターの薀蓄だけは口が達者な人なんて軽蔑されるだけなのに、こっちでは重宝がられるばかりだ。そして、こういった人が吹く笛につられて行列をつくる自称写真を撮る人がいたりする。ましてギタリストは衰えたからといって舞台の裏で代役で演奏する人を用立てたりしないけれど、何もかもやってもらってシャッターを切るだけの写真家は舞台上でかっこうだけ演奏のふりするギタリストと同じだよね。上手い下手以前の話だ。どうせいずれ衰えるのだったら、体が動くうちにやりたい撮影をやりたいようにやるべきだろう。若いときはお金がないし煩悩は大きいし経験値が少なくて当然で、だからこそいまこの時が巡ってきたら一気呵成にやるほかないだろう。

Fumihiro Kato.  © 2018 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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