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1.撮影は光の比率で物体の状態を描画する行為
タイトルの話題はこれまで何回となく書いてきたけれど、なかなか理解されないなという感触があるので踏み込んで記述してみたいと思う。写真にとって光は不可欠なものであるのは誰だって異論はないだろう。しかし光の多寡が重要なのではなく、光のバランスが大切なのである。「何言ってんの、おっさん」かもしれない。なら言い換えよう、光の総量はどうでもよく、光量の比率が重要なのである。
現在のところ、カメラにはレンズから入射する光の総量を加減する機能はあっても、部分ごと光量の比率を加減する機能はない。つまり適正露光または狙い通りの露光であるか否かだけ単純に考えるなら、撮影する際の光の総量はどうでもよいことになる。絞りを開け閉めする、シャッター速度を速くする遅くする、これで同じ露光量に合わせられるからだ。しかし、撮影する範囲にある照度違いを絞り値とシャッター速度だけでコントロールすることはできない。だから写真を撮影する際は、光の総量ではなく画角内の照度比の散らばりを観察しなければならない。
次はカメラの機能ではなく「写真的意味」から照度比について考える。人間は視覚型の生物で、嗅覚や聴覚とは比べられものにならない大量の情報を視覚から得ている。物体の存在や位置、形状だけを視覚で認識しているのでなく、光線状態についても敏感に反応するように人間はプログラミングされている。生得的なものと後天的に学習したものを活用して光の状態から状況判断をしたり、なんらかの感情が想起される。お化けライトと呼ばれる顔の下から照らす照明に違和感が生じるのは、地球上では太陽が常に上方から照らし足元から照らされることがないからだ。ポートレイトで側方からライティングされて他方からの反射を殺したとき、照度比が大きくなりダイナミックな感じやシリアスな何かを画像から感じるのは、顔のパーツの隆起が強調されることで表情への認知作用が強まり、さらに顔の半分が暗く落ちる状況が日常的なものではないからだろう。同じ被写体を撮影してもライティングあるいは照度比の在り方で写真の意味が大きく変わるのである。ところが前述のように、カメラそのものには照度比をコントロールする機能はない。フィルム撮影では紙焼き時に、デジタル撮影ではRAW現像時に照度比をある程度コントロールできるが、いずれも無から有をつくり出すことはできない。また調整には限度と限界がある。
だが風景や景観を含む撮影となると、太陽の位置を決定する季節、時刻、方角には気を遣うが積極的にライティングしようとする撮影者があまりにも少ない。あるいは、風景や景観を含む撮影は「ありのままに撮影すべき」と考える人が圧倒的大多数になる。土門拳による非演出絶対的スナップに洗脳された頭の固いガチガチ主義は衰退したとはいえ、こと風景の撮影になるとガチガチ主義にしばられる人が多い(ほんと土門拳は日本の写真に大きな害毒を与えた人であそこまで持て囃す必要なんてないだろうに。写真だってそんなに上手くないし)。写真は「真実そのままを写すもの」ではなく、そもそもレンズや露光媒体やプリント媒体の物理・化学的性質に左右されて真実そのままに状況を固定できないうえに、三次元を二次元に変換しているのだからそのままであるはずがない。しかも、どのような視点でカメラを構えるか、いつシャッターを押すか、どのように切り出すかなど撮影者によって選択・決定されているのだから客観的とは到底いえないのである。したがって多かれ少なかれ「写真的意味」が付加されているし、論文に添える資料や工事現場、事故現場の鑑識による記録でないなら撮影しようとした時点で意味そのもの、意図そのものだ。風景や景観を含む撮影で電柱をフレームから外そうと左右に移動したり人払いしている人や、ボケを生かすとかがっつり絞り込むと言っている人が、こと積極的なライティングを否定するのはちゃんちゃらおかしいのである。
2.ストロボを使う
巨大な対象を太陽光と折り合いをつけつつ積極的にライティングするのはなかなか大変ではある。だから諦めて、「真実そのままを写すもの」なんて言い逃れしているというのが事実だろう。私は可能なら、北斎が描いたように富士山をライティングしてみたいと考えている。ただ現状ではほとんど無理なので、太陽光と折り合いをつけられる方法を取っている。もちろん、ありのままの光が理想的であれば人工光源は使用しない。
発電機を持ち運び稼働させられる条件があるなら大型ストロボを大動員するところだが、こうしたとしても日中はポートレイトで被写体の照度を加減するくらいしかできない。まして広大な範囲、巨大な対象を照明するのは不可能で、できるとしたら太陽光の影響が少ない時刻や夜間に「ある程度の範囲、ある程度の大きさ、ある程度の距離にあるもの」の照度を加減できるくらいだ。となると、大光量のクリップオンストロボを複数台使用する機材構成を中心にして、この中でできることとできないことを明らかにしたほうが撮影がシンプルになる。さらにライティングスタンドなどを用いるのも単独行の自然環境下では難しいものがある。とはいえ、まったくできないかとなると否なので手法として捨ててはいない。では道具たでの基本形はどのようなものかというと、カメラにブラケットを固定し複数台の大光量クリップオンストロボを配置している。複数台使用するのは、補助光とはいえ太陽光とバランスさせるには(大型ストロボでさえ難儀するのに)大光量クリップオンストロボ1台では明らかに不足だからだ。なおストロボはレンズの光軸に沿ってまっすぐ正面に発光させるだけでなく、首を振ったり、一台はまっすぐ他は別方向にするなどしている。
太陽光下で積極的に人工光源を用いるのは照度比を意図通りにするためだが、特定部分のディティールを意図通り記録するためでもある。「意図通り」はいわゆる適正露光の意味だけでなく、過剰にする場合も含む。太陽光を人工光源の照度で凌駕するのは困難であるし、太陽光の影響を排除するなど無理であるのは前述の通り。こうしたライティングが補助光と呼ばれる所以である。では環境光がかなり明るくても補助光は効果があるのか? だが、これは環境光の明るさと出力次第だ。明るさを露出量として直感的に把握するためEV値と代表的な例を教科書的だが以下に列記する。EV値はISO感度100、絞りF1.0、シャッタースピード1秒で適正露光量となるときをEV0とする単位だ。
真夏のビーチ=EV16
快晴=EV15
晴れ=EV14
薄日=EV13
曇り=EV12
雨曇り=EV11
陳列棚=EV10
明るい部屋=EV9
エレベータ=EV8
体育館=EV7
廊下=EV6
休憩室=EV5
暗い室内=EV4
観客席=EV3
映画館=EV2
日没後=EV1
薄明り=EV0
深夜屋内=EV-1
おぼろ月夜=EV-3
星空=EV-4
こうした環境光下で100W未満程度のストロボ光が支配的にふるまえる範囲を考えて見たい。「支配的」とは、環境光の影響をある程度受けたとしても拮抗するか主たる光源として作用する状態を指すものとする。これらの明るさのうちストロボ光が支配的にふるまえるのは出力、絞り値、距離、感度設定に左右されるとしても、せいぜい雨曇り=EV11未満の環境光下と考えてよいだろう。距離は5m以下せいぜい10m未満と考えてよいだろう。前記の条件だけでなく照射角を広げれば支配的にふるまえる幅が狭くなるなど、とりあえずは大雑把に考えるほかない。(もちろん1m以下くらいの距離から発光させるなら、かなり小型のストロボでも支配的な光源になる)
「環境光がかなり明るくても補助光は効果があるのか?」の答えは以下のようになる。フォーカルプレンシャッターを使用するカメラではシンクロ可能なシャッター速度の上限が1/250程度だ。ISO100、EV15のとき絞り値は絞りは常用域の中に収まるF11、シャッター速度は1/250となる。EV15は快晴の明るさだ。これまた「大雑把」な話として把握してもらいたいのだが、100W未満程度のストロボ光が支配的に振る舞えないとしても、このくらいなら補助光として作用できる条件である。レフを当てるようなものだ。補助光の効果をどのくらい劇的にしたいかによるとしても、環境光がかなり明るくてもストロボの光はちゃんと仕事をしてくれる。ストロボ光が支配的にふるまえるようになる雨曇り=EV11でも、シャッター速度を低速にしてストロボの発光量を加減すれば背景とのバランスが取れる。背景の広さや奥行きも関係するが、EV8くらいになるとちゃんと環境光との塩梅を考えないと「補助光」としての使い方を逸脱しはじめる。EV3では、長時間露光などしないかぎりストロボ光が勝って補助光と呼びにくい表現になる。
大まかに言って、
真夏のビーチ=EV16
快晴=EV15
晴れ=EV14
薄日=EV13
曇り=EV12
雨曇り=EV11
陳列棚=EV10
明るい部屋=EV9
エレベータ=EV8
体育館=EV7
廊下=EV6
休憩室=EV5
の範囲の内で、劇的な効果を得られそうなのは
曇り=EV12
雨曇り=EV11
陳列棚=EV10
明るい部屋=EV9
エレベータ=EV8
体育館=EV7
廊下=EV6
休憩室=EV5
(劇的の意味にもよるが)この程度だろう。
ここまでフォーカルプレンシャッターで考えてきたが、レンズシャッターであっても1/500がシャッター速度の上限であるなら1段階余裕が生まれる程の違いだ。(ややこしくなるのでFP発光、点滅発光を使用する日中シンクロは除外して説明した。こうした機能を使えば、とうぜん補助光効果の可能性は広がる)
3.ハイダイナミックレンジ効果
そんなに面倒臭いなら、RAW現像時にハイダイナミックレンジ効果をかければよいだろうと思う人もいるはずだ。最近は流行が去ってハイダイナミックレンジ効果をドロドロになるまでかけている例は少なくなったが、それでもかなりエグい写真を目にすることがある。ドロドロ写真の例として、意図的に強烈なハイダイナミックレンジ効果をかけた写真を以下に示す。
ヒストグラムを見れば、このような写真がどのように処理されているか理解できる。ヒストグラムは横軸に0から255までの輝度を取り、縦軸にそれぞれの画像中の分布量を取っるグラフだ。ハイダイナミックレンジ効果を明暗ともにいっぱいいっぱいかけたときヒストグラムは以下の例のようになる。もともと中間調が少ない場合は形状が凹型になる。
ハイダイナミックレンジ効果は明暗の輝度の分布量が平均化される。中間調を平均化させつつ、輝度の最高値あたりと最低値あたりをカットとブーストして中間調に近づけているのだ。名称は「ハイダイナミックレンジ」だが、狭いレンジ内に輝度の差を収めて丸める効果であって、輝度のレンジが広がる訳ではない。音楽制作で音圧に対して使用するコンプレッサーと同じようなものだ。こうして処理をした結果、すべての隣り合う輝度の分布量が平均化され先ほどの写真になる。絵画調、イラスト調とも言えそうなのは、もともと輝度差が小さな絵の具を使って彩色したとき同様の状態になるためである。絵画は色数(輝度の差)が写真より圧倒的に少なく、人間が筆などで描画する単位はカメラの画素のように細密ではない。
こうした調子を目標にしているならハイダイナミックレンジ効果を使用するのもよいだろう。アンセルアダムスのゾーンシステムも、狭いレンジ内に輝度の差を収めて丸める手法であり、ゾーンシステムをお手軽に実現できるようにしたものがハイダイナミックレンジ効果だ。私もマスクで部分指定して露光量やディティールの出方を微調整する際に、マスクで数ピクセルを精密に分離しにくい場合はハイダイナミックレンジ効果のうち明または暗をわずかにかけるときがある。また、ボケへ移行する領域を含むとき一様にマスクを設定すると移行する部分に強い違和感が生じ、ここをペンツールのぼかし領域にしたくても最適解が見つからないので使用する場合がある。これは背景が暗ければ明を、逆なら暗を使用する。こうするとマスクが微妙にはみ出していたりボケにかかっていても、明るい部分または暗い部分に限って輝度値のカットやブースト、平均化が実現できる。しかし、ハイダイナミックレンジ効果を画像全体に強くかけたりはしない。
感性は様々だから私の感覚を絶対的なものとする気はないが、もしドロドロ写真がよいのだったら最初から絵画を描けばよいだろうと感じるのだ。あるいは写真を撮影して、彩色を施せばよいだろうと思う。その方が偶然性に依存せず確実に意図を反映しやすい。三次元にある現実の空間では、隣り合う輝度の分布量の差が小さく全体を見ても平均化されている状態はほとんど存在しない。写真より人間の視覚のほうが圧倒的にダイナミックレンジが広いとしても、私たちが視覚で認識している現実世界はハイダイナミックレンジ効果を強くかけた状態とも違う。写真表現の面白みは輝度差が人間の視覚と異なって強調されたり減じられたりするところにあり、だからフルカラーと比較して色の輝度差を失ったモノクロが(色がないというだけでなく)特殊なものになっている。ハイダイナミックレンジ効果は光量のブーストまたはカットあるいは共に作用させて、光量・照度の比率をとことん平坦化させたものだから写真的な面白みに欠けると思うのだ。「光の総量はどうでもよく、光量の比率が重要」と正反対なのだ。光の総量主義なのだ。
4.ストロボで補助光を与える際に注意したい点
くどいほど繰り返してきたが、光量の比率が重要なのであって、結果的に同じ作用を与えるとしても「暗い部分を持ち上げ」て平均化しようと発想しないほうがよい。やっていることは変わらないのだけど、ね。画角全体に異なる照度の領域がどのように散らばっているか把握して、散らばりの調和をいかにコントロールしたら最適解になるか考えたほうがよい。こうした判断はじっくり実像やテスト撮影の結果を見て決めても悪くはないが、ぱっと見て即座に判断できるのが理想だろう。直感的把握より考察を重視するとシャッターチャンスの意味を失う。たびたび批判してきた日本の新聞写真のつまらなさは、劇的な光線と大きなマスを鷲掴みして配置する作法の欠如にあり、画角全体の調和や動感を何もかも平板化しないと客観ではないというつまらない考えに凝り固まっている点にあるのだし。
精神論めいたので技術論に切り替える。補助光の光量は誰もが気にするが忘れがちなものがある。ブレ、である。シャッター速度がシンクロ上限の1/250でも、風などの自然現象でブレる物体がある。まして1/60以下なら、ちょっとした風などでいろいろなものが動く。しかし、ストロボで補助光を与える暗めの部分はストロボの閃光が大きく支配するためブレないか極小だ。補助光が露光に影響する比率により発生したりしなかったりするし、ブレが生じてもまったく気にならない構図もある。とはいえ、位置関係が近いか連続していて、物体の属性が同じで、ブレているものとブレていないものがあるとかなり変な画像になる。
日中シンクロを容易にする機能としてTTL調光がある。異なる照度領域の存在が邪魔なとき、全体をフラットにするのにTTL調光は向いている。あれこれ思案してマニュアル制御するより正確で、私も使用している。ところがTTL調光に任せると、カメラが発光させないまたは弱く発光させると判断して露出のオート機能で露光を制御する場合が多い。補助光を発光させて部分ごとの照度を変えようとする意図が、これでは無に帰す。撮影しようとするとき、TTL調光を選択するか否か判断できるようにしたい。またカメラのTTL調光の制御と対応するストロボの発光量はどちらにも癖がある。なので、機材の癖を理解しておかなければならない。画角の中に明るさの抑揚をつけようとする際は全体をフラットにするTTL調光は向いていないので、マニュアル発光を選択するほうが確実だ。
マニュアル発光させるときの出力は、常に環境光との「比率」で考える。「光の総量はどうでもよく、光量の比率が重要」であるのは冒頭に記した。画角内全体の適正露光にふさわしい絞り値、シャッター速度を設定して、ここに出力を加減したストロボを発光させるのが基本。こうして設定した絞り値とシャッター速度で、EV16にフル発光で抑揚を与えるのと、EV0にフル発光を与えるのでは絞り値が違うのだからストロボ光の影響もまた変わる。環境の明るさとストロボ光の比率が違うのだから結果が変わるのだ。発光出力の大きさを決定するのが難しいように感じられるかもしれないが、ストロボ測光可能な反射式露出計を使わなくてもだいたいの勘で判断できるようになるものだ。環境光が明るいほど相対的にストロボ光の出力の割合が小さくなるので、効果は薄いが明るい場所ほど判断は楽である。
環境光と異なる方向から光が照射される効果を狙うこともできる。これについては改めて別記事にしたいと思う。
Fumihiro Kato. © 2017 –
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