イベントの時代は終わった(生贄のツリー)

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追記.2017.11.23.
後報が出揃った感がある。生贄と表現するのは辛辣すぎるかもしれないと思いながら本文を書いたが、その通りだったようだ。商行為として樹木を使用するイベントもあってよいと思うが、西畠清順氏は自らの後ろめたさを嘘ともっともらしい理屈で隠蔽していたのであって、これでは額面通りのイベントではないと言うほかない。製材したのちに商品化し販売する会社は一部の枝を切り取り材料にするので切り倒す訳ではないとする説明しているが、商品のサイズとあすなろの樹の使用できそうな枝の量から見て即座に信用しにくいものがある。神戸市はあすなろの樹はクリスマスイベント以後撤去する契約のもと会場を提供しているとアナウンスしているので、切り倒して製材する予定だったと考えるのが妥当なように思える。自然保護云々ではなく、震災以後を彩る催しが西畠清順氏の実に間抜けな独演会であったことが寂しく様々な人をバカにしている点がとても気色悪い。詰めが甘いというより、田舎臭い茶番だったということだ。──追記ここまで。

 

私は大阪万博をかろうじて知っている世代だ。伯父から相続した蔵書群の中に大阪万博公式図録があり、この本を開くと当時の世の中の気分がページから立ち上り年月と人の心の変化を感じずにはいられない。新たなシンボルをつくり、シンボルの下で参加者が共感を確認し一体感を分かち合うイベントの形式あるいは手法が、はっきり確立されたのが大阪万博ではなかっただろうか。目的は何であったか歴史の彼方に忘れられているとしても神事をともなう祭りや行事にシンボルとなるものがあり、シンボルを中心に一体感が高揚するのがイベントの原型で、大阪万博に太陽の塔があったように以後のイベントにも何らかのシンボルが用意されるようになった。1980年代になるとイベントの形式や手法が多角し、バブル景気に差し掛かるとメセナと呼ばれる企業がスポンサーとなって文化芸術を支援するイベントも始まった。景気が失速した90年代からの空白の20年はメセナから撤退する企業も多かったが、年中行事として定着した各種イベントはそれなりに生き残ったし、これまでプロが企画しプロデュースしてきたイベントの手法を継承しアマチュアが開催する例も増えた。

イベントには神事から展示会まで含まれるけれど、古代はいざ知らず現代では商業的な理由で開催されるのが常だ。なぜなら大金を投じたくさんの人を動員して準備するイベントに身銭を切るパトロンは(メセナから企業が撤退したことでわかるように)そうそういないので、どこかで収支をとんとんか黒字にしなければ折り合いがつかないのだ。人が集まれば情報や物品が消費され、ここに高揚感がともなえば一層促進されるだろうとイベントが企画される。自治体が主催者や後援者になる場合も、いまどきは赤字は許され難いはずだ。持ち出し前提なら成果が計測でき、この成果を報告書に書ける内容でなければイベントの開催を議会は承認しないだろう。いずれにしても企画書が幅を利かせ、もっともらしいお題目が用意される。本音はただ騒ぎたい、ただ金儲けがしたいだったとしても、これでは誰も首を縦に振らないし、笛太鼓に合わせて踊らないのである。シンボルをつくるにしても、もっともらしい理由が必要なのだ。それがゆるキャラであっても。これを世知辛いと評するのも自由だし、責任がともなうのだから当然とするのも自由だ。

1995年阪神淡路大震災が発生し、鎮魂と復興への願いを目的にしたイベント「ルミナリエ」が行われるようになった。公の場に明るい光を灯し人々が集うことまで私はケチをつけようとは思わない。むしろ必要なものだと考えている。諏訪の御柱で巨木が斜面を急降下したり、だんじりで山車が街中を駆け巡ってたりと、論理や理屈では説明できない高揚が人には必要で、特に悲しい出来事の後は希望を形にしたいのは当然だ。ルミナリエの移植版である東京ミレナリオが1999年から行われるようになり、仕事場が会場の丸の内からさほど遠くなかったことや、2000年代は大手町皇居前のパレスホテルのオフィス棟にある制作会社で仕事をしていたのでイルミネーションを土地の人として体験した。このときは東日本大地震の到来と被害は想像すらできない時代で、最初の年こそ阪神淡路大震災の被災者を慰めるというアナウンスは浸透していたように記憶するが、趣旨が年々イベントから薄れて単なる電飾祭りの様相になっていったのには違和感を覚えた。東京ミレナリオの期間中は会場となる通りは通行がままならない人だかりとなって、大手町を仕事場にしている身としてただただ厄介で騒がしいだけという感想しか抱けなかった。そして、これでいいのだろうかと悶々となった。

神戸市に世界一高いクリスマスツリーを立てると報じるニュースに触れたとき、私は何となく東京ミレナリオを連想した。私は神戸市民ではないし、巨木を掘り上げてきた富山県の県民でもない。したがって良いの悪いのと口を挟む権利はないかもしれない。だが、世の中の少なくない数の人々が推定樹齢150年、高さ30メートルのあすなろの樹を抜いて運送し植樹とはいうがクリスマス期間中だけ生かし(本当に生きているのだろうか)、その後は製材して数珠のような商品にして売る行為に違和感を感じていた。ここに私も東京ミレナリオにも通じる何かを感じたのだ。

話題をつくり停滞しているものに活力を与えるのは間違っていない。では話題づくりのため巨木の抜き、運び、最終的には商品として売るのはどうなのだろう。樹齢150年は珍しいものでなく、人知れず存在しているよりこうして活用した方がよいという考え方もあるだろう。これら一切合切の過程をイベント化するのも、いまに始まったものではない。博覧会を催すため林を伐採し、パビリオンをつくったり運営するため大量の二酸化炭素を排出してゴミを出すことに比べれば何ということはないのかもしれない。たぶんそうに違いない。いやいや自然保護がどうこう言いたい訳ではないのだ。大阪万博が消費を美徳とし未来を語るのが楽しかった時代の空気に満ちているとすれば、現代は樹齢150年の巨木を伐採するのに神経質になる空気が濃厚なのだ。巨木を移植したのちたちまち材木にして商品にするなら、これを納得させるだけの理由が必要になっている。大きなものはよいことだと素直に喜べない不安が人々によぎったのだ。御柱やだんじりは危険かもしれないが当事者の多くが納得のうえ必要だと感じているように、巨木をシンボルにするイベントを催すなら多くの人が納得し積極的に高揚できるものでなければならないのではないか。ぼんやりした違和感や罪悪感を覚えるクリスマスは、そもそもイベントとしてどうなのだろう。ネガティブな要素が中央に鎮座するイベントなんてイベントではないだろう。

報道を読み進めると、この木を見つけてきたイベントの企画者であるプラントハンター西畠清順氏が賛否両論含めて議論されるのを望んでいるような口ぶりであれこれ語っていた。なぜクリスマスに企画者の思想で教化されなければならないのだろう。巨木をめぐる話から私は生贄を連想し、もしかしてあすなろの巨木はプランハンター氏の信条を伝えるための生贄なのかと勘ぐった。あるいは神戸に捧げられた生贄なのか。これが私だけの妄想なら、一個人の感想で済む。だが同様に違和感を感じている人々の言葉を読んだり聞いたりすると、やはり同様にイベントのシンボルにするため巨木が晒し者の生贄にされていると感じているようだ(違うかな?)。こうした意見は、御柱に使われる巨木はよくてもツリーに使われるあすなろは駄目なのかという理屈に対抗できないあやふやな感覚にすぎない。そうだとしても、「世界中で毎年クリスマスシーズンは巨木が切り倒されているよ」と言われても肯定できない気分が漂うのだ。都会を歩けば巨木を切り倒したツリーがあり、これを見て通り過ぎていた人もたぶん今回は異議を唱えているはずだ。私もそうだ。

間違いなくひとつ言えるのは、かつては見かけの上だけでも人々の気持ちや意思をひとつにまとめられたが、今は人の思いや考え方があまりに多様化していて、見かけの上でさえまとめ切れない時代になったということだ。イベントの時代は終わったのかも知れない。たぶん80年代までなら、神戸のツリー企画に異議を唱えるのは自然保護活動家くらいだったろう。この間に、私を含め多くの人が彼らの意見に洗脳されたなんて皮肉も言えそうだ。空疎な政治的なただしさというものに気を使いすぎなのかもしれない。あすなろの巨木が悲しんでいる的な擬人化はすまいと思うのだけれど、移植すると言いながらクリスマスが終わったら切り刻むところに屁理屈が見出され、人間の屁理屈に付き合わされる巨木が哀れに思える。しかも一切合切ショーアップされている点など特に。こうしたものが私の思い過ごしであればよいし、巨木の使い途として合理的なものなら更にどうでもよい。しかし、そういう情報は寡聞にして知らない。どこかで伝えられているのだろうか。

ツリーイベントには糸井重里氏が一枚噛んでいるそうだが、今回の件で広告業界が培ってきたイベントの手法を応用したのは正解とは言い難いと思う。糸井氏が手がけた徳川埋蔵金発掘番組とまったく同じ方法で、ツリーイベントは盛り上げが図られている。素朴で楽天的な何がしかに直球のメッセージを託しシンボルにする糸井氏の手法そのものでもある。糸井氏が企画した徳川埋蔵金発掘のテレビイベントでは、小賢しい金儲けではなく夢と期待を抱ける大きなホラ話を大真面目に打ち出して、過程の一部始終を放映することで視聴者に参加感を煽る物語づくりが行われた。かつて大成功したこの企画とクリスマスツリーイベントの手法は同じで、ターゲットへの訴求方法の吟味も同じように適切だったかも知れないが、ターゲットは以前のようにはひとつになって盛り上がらなかった。前述のようにターゲットは一様ではなかったし、昨今はターゲットにされるのを本能的に嫌う人が多い。徳川埋蔵金発掘番組以後の世代にとっては舞台裏が見え見えだったというのもあるだろう。

世の中からじわじわ何かが盛り上がり、これがいつしかイベントになるのが正しいなんて理想主義は幻想でしかない。でも誰かの意図からターゲットにされ踊らされるのはこりごりという人がいまどきは珍しくない。だから広告が以前のようにエンターテインメント視されないのだ。なのに、神戸のツリーは一部始終が広告的な訴求や広告屋がしかけるイベント臭を発していた。樹齢150年の巨木を抜くことで喜ぶと思われた点に、異議を唱える人はターゲットにするな馬鹿にするなと怒っているだ。経済活動の一貫としてビルの前に切り倒した巨木を飾るのは看過できるが、もっともらしい理屈をつけられ、これを盲信するほど馬鹿ではないと言いたい人が多い時代なのだ。

ここ十数年はインターネットが隅々まで普及し、SNSで個々人が様々な声を挙げる時代になっている。糸井氏はネットメディアを知らないどころか「ほぼ日」を立ち上げTwitterも活用している。だから身を以てインターネットとネットを使う人々を知っているはずだ。東日本大震災と原発事故をめぐる糸井氏の発言は冷静で適切なものが多かった。犬猫SNS「ドコノコ」の運営も程よくうまいものだと感じられた。なのに、樹齢150年の巨木を植樹とはいうがたちまち切り倒して企業が商品化する点をよしとした。いやいや、とても合理的な巨木の活用なのかもしれない。これを参加型企画として報じた。いまどきプラントハンター西畠清順氏のお花畑のような言葉を鵜呑みにできるほどターゲットはカマトトではない。もしかしたらお花畑なのではなく、皆さんへのプレゼンテーションが下手なだけかもしれない。そうだとしても巨木を伐採する理由づけがふわふわした脆弱なものであると見抜き、SNSで声をあげる人が少なくなかったのは事実だ。広告は成功しようが失敗しようが自慢も言い訳もしないのがプロの制作者というもので、制作したものに別途説明をくわえなければならないものなんてゴミクズでしかない。すくなくとも私は、こう教わった。楽しめない人や、モヤモヤした嫌な気分を抱く人が少なからず生じた段階で、この企画は失敗に終わったと言える。

私にとって東京ミレナリオが(はっきり言えば)不快だったのは、阪神淡路大震災をだしにして電飾を輝かせる口実にしているのを感じたからだ。なぜルミナリエそっくりの趣向で電飾だらけにしなければならないのか、と。ルミナリエを移植したのは事実なのだから、本来の目的を徹底すべきだったのだ。徹底できないなら、ただただお祭り気分を味わう単なる電飾としてデビューすべきだった。もっともらしい理由だけがあって、ただ派手なだけの電飾祭りに堕した東京ミレナリオに主催者のエゴしか感じられないのが恥ずかしく居心地が悪かったのだ。神戸のルミナリエが晒し者にされ生贄にされているみたいだったのだ。

すべて思い過ごしなら、いい。まったく見当違いだったら、二度とくどくど話はすまい。主催者と参画した人々に申し訳ありませんでしたと頭をさげ成功を祈る。すべて思い過ごしだったら。

 

Fumihiro Kato.  © 2017 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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