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前回、夏の太陽光線といかに向き合うか考えた。今回は、夏に限らず風景を前にして何を考え撮影をしているか個人的な話をしようと思う。
夏の太陽光下で撮影した写真を現像した結果として、以下の画像を掲示した。
だがこの画像はモノクロであり、先に述べたように強烈ゆえに扱いにくい太陽光のロケーションであったから、RAWデータに記録されたものは別種の趣である。
上掲の画像は同カットのRAWデータをPhotoshopで開き、なんら操作することなくTIFFに書き出し、これをリサイズの上でJPEG化したものだ。カメラにツァイスの15mmを装着したまま海岸をぶらついて、この場所に至った。実際に目にしたものは、写真の常としてこの通りではない(けっこう月並みで凡庸でしょう?)。とにかく蒸し暑く日差しも強く、目が焼けるかと思ったほど海岸の砂で乱反射する光が頭上からの陽光と相まって呼吸さえまともにできないほどだった。ほとんど白茶けた世界しか見えていなかった。
1.私はテトラポッドの形状に心惹かれた。
こうした立方体を超広角で撮影した場合、誇張されたパース描写で形状の崩れが生じ見苦しくなったり不安定な見た目になりがちであることを考えた。ただし、物体が奥行き方向へ連続しているとき人間の感覚はそちらに気を取られ物体のフォルムが多少崩れても気になる度合いが軽減される。こうした理由で、この撮影ポジションを得た。
2.水平線を画面中央に位置させた。
使い慣れた画角のレンズはファインダーを覗かなくても、感覚だけで構図を決定できる。したがって1.でポジションを得たとき既に構図は決定されていた。あまり面倒な仕掛けを構図に盛り込むのは好まないので水平線を画面中央に位置させた。
3.海岸のゴミに気づいた。
ファインダーを覗いたときペットボトルが二つ落ちているのに気づいた。この程度のゴミなら現像時か現像後の修正で消し去れるため無視することにした。
以上が構図まわりの思考だ。次は露光まわりの思考を列記する。これは構図についての思考と同時進行している。
1.テトラポッドの暗部に階調を残したいと思った。
構図についての1.と同時に、強烈な光線下で黒くつぶれがちなテトラポッドの暗部に階調を残したいと考え、他の要素である砂のグレーと空の明るさについて考えた。このとき現像後に実現したいトーンを思いついた。つまり、先に示したモノクロ画像のありようをイメージした。
2.空間内に配置された幾何学的なテトラポットに面白さを託したい。
テトラポッドを白く描画させ、釣り合いが取れるまで浜を明るくしたかった。だがオーバー露光では空のトーンが飛ぶ恐れがあった。砂のグレーが標準反射に割と近いことを思い、カメラの測光そのままで露光しようと決定したのは、テトラポッドの明暗、空ともに経験からトーンが保持されるとわかっていたからだ。
ここまで、風景に出会い撮影したポジション立ってからせいぜい二呼吸する程度の間だった。もちろん言語化されないまま手を動かしているので、ここで改めて文章にしている。
こうして持ち帰ったデータを現像する際、前回書いたようにまず階調の応答性をフラットなものにし、さらにコントラストを可能な限り低くした。次に砂の輝度をざっと決め全体を明るくしている。あとは空、テトラポッド、微調整用に浜をそれぞれマスク指定した。空は湿度を蓄えた重さを出すため、さらに応答性を低め、コントラストは最弱。フィルター効果で事前に青を暗めにしていたが、ここでは明るさで調整せず彩度で重さを表現できる輝度に調整している。輝度・明度を彩度で調整するのは、全体の色を構成している色の微妙な違いから豊富な階調の違いを得られる可能性があるためだ。テトラポッドの描写を単純化し幾何学的な印象を強めるため、めりはりをつくれるよう応答性を逆に強め明るさを+へ。こうしてテトラポッドの描写の基本形をつくった上でコントラストを増減微調整しながら最適解を導き、形状の単純化とめりはりを増すため明瞭度(クラリティー)を強めにかけた。なぜこうした処理をテトラポッドに施したのかとなれば、テトラポッドを余計な感情を想起させない単なる立体や幾何学性のみの存在にしたかったからだ。
ナニカに心惹かれたとき、とりあえずシャッターを切るのはひとつの手だ。フィルムを使用していた時代より、写真のデジタル化によってメモリの容量さえ許せば無尽蔵に撮影できるのだから心安いものだ。しかし、どのようにデータが記録されるか、このデータからどのような画像を得たいか目論見があやふやでは望み通りの結果を残せない。必要なものは、「どのような画像を得たいか」である。「どのような画像を得たいか」わかるためには、現像処理で与えられる効果をどうしても経験値として手にしていなくてはならない。これはフィルム、デジタルどちらにも共通するものだ。
重要なのは「RAW現像でこねくり回さないとならない」被写体、構図、露光量ではよい結果を残せない事実だ。私の写真は現像でかなり手を入れているように見えるかもしれないが、私にとっては想定内のもので試行錯誤の迷路に陥っている訳ではない。ここは人それぞれであろうが、すんなり処理できないものをゴテゴテ作業しても何も得るものはない。気をつけたいのは現像時の処理の引き出しが多い人が、引き出しの多さに溺れがちな点だ。これは私も自分を戒めている。
そして、自分の直感が何に基づくものかちゃんと理解しておきたい。なにより大切なのは、この1点と言っても過言ではない。いずれの段階でも、どうしてこねくりまわすようなことになるのか、である。こねくりまわしているときは、なんらかの目的に向かっているつもりになっている。目的があるから、対処を導きだそうとしているのだ。しかし、この状態は迷路の出口を探しているのと何ら変わりない。迷路を出るという目的ははっきりしているが、右を選択するか、左を選択するか適当であったり、自分では正しいつもりでも結果に直結しにくいものを選んでいるのだ。直感の立脚点からして誤っているのだ。直感とは思いつきではない。直感とは、実績と経験に裏打ちされたものが瞬時に湧き出る現象である。
Fumihiro Kato. © 2017 –
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