所属する社会に否定的発言ばかりな人とは

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この社会はダメだ、ナニナニ界はダメだ、とばかり言う人がいる。もちろん自らが所属または帰属する社会は素晴らしさ一点張りではなかろう。提灯持ち、太鼓持ちになれとも思わない。しかし、とにかく否定的な人というものがいる。なにか事があれば、悪かったのは所属または帰属する社会のせい、所属または帰属してる誰かのせい、と貶す。ところが外界には態度を一転させ、外の社会は素晴らしいと言い、あの社会は、あの人たちは悪くないと言うのである。

こういう人は「私はわかっている」「私は真実を知っている」「あの人たちのように正しい」と言いたいだけなんだな。で、こういう精神性は植民地を支配する外国人の側に立とうとしていた本国人とまったく同じなのである。こういう立場を取れば得なのだろうし、「あのとき私が言ったではないか」と呟くだけで、所属または帰属する社会の一員としての責任を免れると思っているのだ。他人事にできると信じ込んでいるのだ。と同時に、外の世界の賢さなる幻想と一体になれると思い込んでいるのだ。

冒頭に書いたように、所属または帰属する社会は素晴らしさ一点張りではない。しかし、この手の人は批判精神旺盛なんて上等なものではない。批判は、新たな価値観をつくるところまで続いている。新たな価値観が構築できなくても、構築しようとする態度くらいは示してもらいたいものだ。だが一言居士のぼやきは、悪口で始まり悪口で終わるのである。言いっ放し、だ。とうぜんのこと自分の言動への反省や内省なんてものはない。こういう人々の態度をカッコ悪いと感じるのは正常な精神だし、気持ち悪い人だよねと思われても仕方ないのだ。だって、気持ち悪いもの。

私は最低な会社に勤めていたことがあるから、所属または帰属する社会が素晴らしさ一点張りなんて、どんな国、どんな社会、どんな集団、どんな属性にもありっこないと身を以て理解している。経営者が無能だから最低な会社になるのだが、最低であるが故に否定的発言ばかりの社員が増える傾向にある。だから私は、否定的発言ばかりの人の卑しさに詳しいのだ。

つい最近、サッカーの国際試合で勝敗が決したとき乱暴狼藉を働いたチームがあった。この試合をリアルタイムで見ていなかった私は、どんなものかと録画映像を点検した。勝利のポーズが挑発や嘲笑であったと印象を操作し誘導しようとしているチームの監督や、この発言の尻馬に乗って「あれは日本が悪いですな」としたり顔のテレビ芸人に落ちぶれた元野球選手がいたけど、この元野球選手のテレビ芸人はまさに所属するスポーツ界に否定的発言ばかりの人だよね。

この件については、新聞の一面にどーんと構えるコラムで「勝敗は時の運。勝利に酔って敗者への気づかいがないのは現代の政治の一コマのようだ」なんて意味不明のオチで語られてしまう可能性だってあった。なぜなら、この国、この政権、この社会を否定一方に語り印象の操作と誘導を助長するのは本邦の新聞の十八番だから。いまどきは販売店に大量の押し紙をぎゅーっと押し付けなくてはならないほど、新聞なんてものは読まれていないし影響力がないのだけど、それでも少数のコアな層の心をがっちり掴んでいる。そして、こうした絶滅危惧種の人々の存在をもってして「世論はここにあり」と新聞は言い始めるのだ。否定と肯定ふたつの旗を渡しつつ、否定の旗を挙げろと日々運動しているのである。

もし選手が、猿の真似をして敗者を愚弄した、敗者にむけて政治的スローガンが書かれたプラカードを掲げた、客席に天災・人災があったことを祝うバナーがあった、なんてことがあったなら批判すればよい。だが今回は勝利を祝福するはずの側、相手チームの問題行動を問うはずの側から、こういった批判が発せられたのだ。まあ例のテレビ芸人に堕した人は、祝福する側に帰属している意識がないのかもしれないけどね。祝福することで帰属する社会と一体になったことで、別の機会に叩かれるのを回避しようとしている可能性もあるよね。

この国、この社会、この集団の一員であるのに、一体になるのは危険なだけでなく悪いことだとする意識は今にはじまったものではない。こういった風潮のはじまりは、我が国が第二次世界大戦に敗戦したときからのものだ。体制翼賛の旗振り役で、開戦しろと真っ先に旗を立てて降った新聞やラジオが、敗戦と同時に態度を翻してからのものだ。戦争への反省や内省は重要だし、此の期に及んで戦争を続けろと言えたものではないのは事実としても、GHQの目を気にしての転向だったのだ。この時代の新聞やラジオはGHQの側に立ち、植民地を支配する外国人の側に立とうとしていた本国人そのものだったのだ。戦争に負けてげっそりしていた人々に高みから説教しはじめたのだ。そして未だに、願望と幻想をごっちゃにしたまま「この国は、この社会は、悪い」と言い続けている。「私はわかっている」「私は真実を知っている」「あの人たちのように正しい」と自己正当化をはかっている。なんだけど、高校野球をはじめオリンピックなど金に成る場面では、帰属集団への一体化を無条件に賛美するのである。

内省がないまま高みに立って、何ら責任を負つもりがないのに、ダメだダメだと言い続ける。ダメだダメだと言い続けるために真実には触れず願望と幻想による印象操作ばかりする。こうして帰属する国や集団そのもの、あるいは誰かがやる気をなくせば「ますます悪い」と言い、奮起したなら「これは私たちのおかげ」とする。なにか新たなコトが起これば、「言わんこっちゃない」と騒ぐ。真実が世の中に伝わると、風見鶏よろしくしれっと態度を変える。こういう人間を下司というのだ。敗戦以降の情報操作だけでなく東日本大震災の風評被害という大罪を犯したメディアや人がいる。こうした一大事に自らの責任を内省し、真摯に事実と向き合うのを嫌がり、ここに至っても高みの見物、高みからの説教をしたがったアレコレだ。批判でなく、願望と幻想をごっちゃにして自らこそ正しいと嘘をついたのだ。一体になり、ことを鎮めよう、ことを収拾しようとしていた人々を分断した。こうまでして責任から逃れたいのか、高みに立ちたいのか、なのである。一体になる、という表現が体制翼賛に聞こえるなら、同じ目的に向かっていた人々を分断したと言い換えてもよい。

 

Fumihiro Kato.  © 2017 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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