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私はずっと世界に対して違和感を抱いていた。物心ついたときから、ずっと。
わかりやすい例を挙げれば、テレビ番組というもののコメンテータへの「?」。なんでああいう職種が成り立ち、重宝され、どこにでも湧いて出るのか。なのだが、今日はじめて理解したのだ。世の中では、基礎となる情報を与えられても点と点を結び、その結びが客観的に正しいか、あるいは結びつけた結果をいかに評価するか、といったことができない人ばかりだったのだ。したがって、これらを番組内でコメンテータが行なってみせるのである。しかし、コメンテータの能力が高いとは限らない。限らないが、誰かが断定してみたり、泣いてみたりしないと、点と点を結びつけられず、判断できない人の番組的カタルシスのため存在しているのだった。番組としては都合のよいカタルシスというか結末感があれば、あとはどうだってよいのだ。
「ハハハハハ、そうだよ」とおっしゃる人々は、たとえばここを訪ねてくださる人は写真に興味があるのだろうが、どんなレンズがよいのかという問題になったとき断定してくれる人を探しているのかもしれない。すべての方々が、とは思わない。とはいえ、皆無でもないだろうね、と。どんな写真がよいのか悪いのか、とかも。こんなことを書けば嫌われるのかもしれないが、嘘を書いてよいしょしても私にとってよいことなんか何もない。あー。
で、基礎となる情報を与えられてもどうにもならない人は、分析力が欠如していると言える。これをひらたく言えば想像力の欠如だ。「想像」はほんわかした情緒のように使われがちな言葉だが、よくよく考えてみれば「分析」にまつわる心の動きだ。事実をいかに捉えるか、点と点を結びつけるか、判断するか、背景を考察するか、だ。こうした余白に考え巡らす行為が想像力である。という、言語と言語で示される人間の状態を整理する行為、小さな哲学もまた。
あるタレントさんの写真がヘタコラの素材として使われているといい、ヘタコラであるからしてネガティブな、社会的評価を下げる方向のものなのを報道で知った。また、ある飲食店がありもしないことを局地的に騒がれ迷惑している話を聞いた。こういうことを行う人は、自らがしているモノゴトを娯楽と捉えているのだろうし、こういった娯楽が何を意味するか理解していないのだろう。想像力の欠如である。自らの欲求や行動を分析する習慣がないのだろう。コメンテータがいない番組、ジャッジする人がいない番組を見てもキョトンとする人だ。そうそうお笑い番組にコンテスト形式のものが増えたのも、ジャッジする人がいて、会場とか効果音で「ギャハハハ」とならないと面白いのかどうか判断できないからだ。誰かが、世の中が、面白がっているから娯楽として笑うという構造。
あの事件の後日談であるが、私の訴えは認められ警察が重点監視体制を取ってくれた。だが、あれこれが当人の周りで進行しているのに、何がどう悪かったのか、ではどうしたらよいのか、まったく理解していないらしい。で、頭が悪いというのは本当に迷惑で、コピーライターの中畑さんが桃井かおりさんに語らせたように「世の中バカが多くてつかれますね」なのだ。私はすべてをしかるべき機関に預けたので、当人のことはどうでもよい状態になり落着した。バカの吸引力で、前述したヘタコラ、嘘、お笑い番組の構造のようにバカが吸着され集まっているのだろうが、バカと付き合うのはくだらいなので無視を続けるだけだ。いつか、バカが地引網にかかった魚のように大漁状態で当人とおんなじ監視体制に入るか検挙されるかするだろう。
あのバカどもから迷惑を被っていたのは多数の人らしい。おもしろいもので示し合わせてもいないのに、この時期いっきに動いたみたい。私は元気です、一応。
Fumihiro Kato. © 2017 –
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