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Workshopの項で「RAW現像」について書き始めた。当サイトの記事を何回か読んだ人は、私がRAW現像そのものや、画像処理の話を繰り返し書いていることに気づいているだろう。ここまでこだわる理由は、シャッターを切っただけでは写真は自己表現に至らないからだ。ずうっと昔、11歳の私は質流れの一眼レフを手に入れて写真を撮影しはじめたが、買い物の興奮が冷めたとき写真屋さんのDPEを経て仕上がった写真に大きな不満が生じるようになった。シャッターを切った瞬間に見ていたものと違う、という落胆だ。こうして紙焼きまで自分でやらなければ写真を撮る意味がないと悟り、ここから私の写真人生が始まった。これが理由である。
フィルムを現像して紙焼きをつくるのは、案外簡単なものだ。ちょっとした参考書があれば初回から人さまに見せても恥ずかしくない写真を焼くことができる。重要なのは現像紙焼きの手順ではなく、どのような理屈でフィルムが現像され紙焼きに画像が定着するかだ。撮影意図そのままに紙焼きをつくるため、原理と効果が頭に入っていなくてはならない。これでなくては応用が効かない。応用が効かなければ新たな発想を表現に結び付けられない。デジタルデータを表現に昇華させるRAW現像も、何ら変わるところはない。
中学生の頃だが写真雑誌のコラムを読んでいたら、「人前にさらすカメラは見栄を張れるものを買うが、人前に出すことのない引き伸ばし機は適当なものを使うのがあたりまえな撮影者が多すぎる」と書かれていた。写真表現を突き詰めているなら、アウトプットのための機材を惜しむはずがないという意味だ。写真がデジタル化した現在も意味がある言葉だと思う。だが、こんなことはどうでもよい人がいても不思議ではないし、その人を責めることもできない。機材だけでなく、RAW現像そのものに重きを置かない人に対しても同じだ。求める喜びや幸せのかたちの違いである。
私はWorkshopを特定の人を想定して書いている。書くことで自分自身の確認をしているのと同時に、苦労なんてものはする必要がないし苦労するだけで人生を消耗するのは馬鹿馬鹿しいと特定の人のことを思う。特定の人のためではあるが、こうやって公開しておけば世の中の苦労がすこしは軽減するだろう。たぶん。遠回りした私は、このように考える。
(なんやかやで金を取って対面で伝える範囲に踏み込んでいるとは思う。料金込みで対面で、となったらより詳細に微に入り細に入りあれこれできるだろうとは思う。ま、わかっている人には無用だろうけれど、それくらいの内容にはしたいと書いている。いっさい懐に入るものはないけれど、ね)
Fumihiro Kato. © 2016 –
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