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いろいろつらくなって「もうだめ」とライカやらなにやら売り払ったとき、どうせ値段がつかないだろうと手元に残したのがC330だった。55mm、105mm、180mm 、パラメンダーと呼ばれる接写時のパララックスを解消するエレベータともども居残り組になった。
話せば長いので手短に書くなら、はじめての中判、あらゆるところで私のそばにあった中判機だ。RB、RZは見かけは汚くてもいいから程度のよい中古が出たら教えて、なんだったら競り落としてきて方式で手にいれたし、「もうだめ」のつらさの象徴というかあの巨体と重さが心理的にしんどかったので手放すとき未練を感じなかった。いまも、別にだ。しかし、C330は売らなくほんとによかった。
二眼レフは今でこそファッションでちやほやされているけれど、C330を手に入れた1986年当時は過去の遺物でしかなかった。とはいえ、二眼レフのくせに蛇腹が伸びてやたら接写できるし、交換レンズはあるはでC330は瀬戸際の時代に踏ん張っていたのだ。
で、写りはどうか。うーん、ポラを切る必要がないなら、モノクロなら人物撮影の分野で堂々と有名どころと張り合えるだろうし、ダイアン・アーバスが使ってたのには理由があるということ。でも、誰が使おうと、使うまいと、私の評価は変わらない。RB、RZのこれから撮ります、なんとしてでも撮ります、失敗しません的なナニカがふっと抜け、呼吸を楽にして撮影できるカメラだ。
たぶん、勘を取り戻すリハビリを経てC330を使いだすことになると思う。C330で撮影した写真をどうするかは後の話で、とにかくウエストレベルに大きく開けた正方形の逆像で被写体を見て撮影したいだけなのだ。
いろいろ手数を踏んでやっとのことで画像と対面できたのがフィルムでの撮影だった。さらに粒状性と解像性能だけ考えると、大判密着焼き以上の結果を残せるデジタルカメラを前にしては、いくら中判とはいえ歯が立たないどころか「なんですかこれ」だ。しかしフィルムを模して人工的に発生させた粒状感にはない、あの世の世界を垣間見るようなフィルム独特の描画の魅力に引き戻されつつある。
デジタルはデジタル。フィルムはフィルム。なのだ。
Fumihiro Kato. © 2016 –
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