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狭義のポートレイトとしてではなく広義の人物撮影について書く。ポートレイトとすると、ピンナップポスターの写真や巻頭グラビア写真の撮影に限定した話と誤解されがちだからだ。つまりピンナップ的なものから肖像、ルポルタージュまでひっくるめて、分野は様々だが人物を撮影する行為としては同じ土俵で違う技を繰り出しているという話の、同じ土俵に着目して書く。
撮影対象は、よく見知った人である場合より初見の人であるケースが圧倒的に多い。で、人は顔と声で相手を判断する生き物だ。顔と声は内面と必ずしも一致しない。現実が歪曲されさえもする。だが写真は外見しか記録できない。
もし実際以上に魅力的に撮ることを唯一の目標にするなら、これは商品撮影だ。掃除機や高価なワインのボトルを撮影するのと同類だ。では偽悪的に撮影すればよいのかというと、これもまた違う。もし、現実が歪曲されているなら「歪曲を歪曲として表す」のが人物撮影ではないかと思う。類型的な美しさが備わっていないが、その人から美しさを感じたら喜ぶべきで、このとき感じられた美しさが現実を歪曲した幻影ならこの幻影を撮影する。
現実が歪曲されていると「把握」できるとしたら、姿かたちから内面を理解していることになり前述の論と矛盾するのではないかと言われそうだ。いや、違うのだ。直感的に「あー、変な空気を発している」「おー、バラ色の空気をまとっている」と感じる人がいて、こういう空気を感じ取ろうよという話だ。現実歪曲光線を出しているのは理解できるけれど、一瞬にして本質まで到達するのは無理。しかしある種の空気を発しているとき、この空気感を表現できたら御の字というか大成功。こんな具合だ。
現実歪曲光線の存在を把握し、人間像として固定する。すると写真とは恐ろしいもので、到達不可能だった真の人間性に比較的近い部分がなぜか画像として写るのだ。外見しか記録できない写真に、現実歪曲光線と人間性の核心に近い部分が写るのはシャッターを切る瞬間に鍵がある。連写秒間○枚とかいうもので機械的にシャッターを切っても、そのシャッターチャンスを外す。「ある種の空気」と対峙して、はじめて他人とは違うシャッターチャンスに気づくものだ。
またフィルムで人物を撮影したくなった。愛という意味ではRB、RZより深い関係だったC330。デジタル対応不可の型番のため手放した67のあと手元に残った66だ。サイトの装飾画像にしようと、ストロボ「ポン!」で撮影したらやけにきれいに見える画像になったが外装はかなりくたびれている。「どうしてストラップが?」「買った日からずっとつけっぱなしだから」
Fumihiro Kato. © 2016 –
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